00年代に若者だった俺の、『俺の家の話』の話

【ブログテーマについて】

ろくに自己紹介も書いていないのですが、このブログでは下北沢のグルメ情報に加えて、カルチャー情報も発信していきます。
元々演劇やバンドが好きだったことも、下北沢に住んだきっかけ。
映画や演劇(最近観れてないのですが)、音楽など、30代・下北在住(ややサブカルオタ)の目線から、気になるものを少しずつ紹介していきたいと思います!実は脚本の勉強をしていたこともあり、特に映画・劇作品には勉強してきたことも絡めて紹介できたらなーと思います。
というわけで第一弾は、テレビドラマ「俺の家の話」の感想ブログです。

【クドカンの描く家族】

ドラマ「俺の家の話」。ようやく最新話まで追いついて観れた。
今、クドカンが描く家族像がどのようなものになっているのか、という興味。

介護、死、離婚、子育て、発達障害、生活費といった、現代的かつライフステージで多くの人が直面する問題。
そしてこのドラマ1番の特色である、「能(人間国宝の家に生まれて)の継承」というフィクショナルで個別・象徴的な問題に、不器用ながらも正面からぶつかっていく主人公を、IWGPで暴れまくっていた長瀬智也が好演している。

本作で脚本を担当するクドカン、そして役者・長瀬智也の出世作でもある『池袋ウエストゲートパーク』は今作中でもパロディとされているが、作り手からは「あの時遊びまくっていた俺らは、今どこに向かってるの?」という当時の作品自体へのアンサーであり、また同世代への問いかけでもあるというように感じる。

タイトルでも示されているが「俺の家の話」の話を端的に言うと、「外に家族を持った主人公が、元の家族の中へ帰ってくる」話である。
主人公の寿一は人間国宝・寿三郎の長男として、子供の頃から能で才能を発揮していた。しかし父親にだけは一度も褒められることはなかった。
寿一はそこから、プロレス団体という自分を認めてくれる新たな家族(的なコミュニティ)を自ら見つけ出し、さらには妻・息子を設けて自らの家族を築いてきた。
ところが父・寿三郎が危篤となったことをきっかけに家族の元へ戻り、父親の介護を担当することに。「外の家族」を捨て、「元の家族」の一員として役割を果たす、というのがこの作品の大きなテーマである。
思えば「IWGP」にしろ「木更津キャッツアイ」にしろ、主人公たちは外のコミュニティで家族的なつながりや安らぎを得ていた。
どちらも親子の関係は良好なものの、それは友達的なパーソナルな関係-上記2作品とも主人公の親は片親であり、家族の関係は一対一の個別的なものである-として描かれていた。これは反抗期、自律精神の宿りはじめた若者が、家族以外の自分のコミュニティを見つけ出そうと奮闘する性質と重なっているもので、多くの若者にとって共感しうる、または憧れうる世界観を創っていたと思う。
そこから非常に解像度が高く、複雑な家族観として作品を創るようになったのには、やはりクドカン自身が家族、子供をもって人生観が変わってきた部分が多分にあるだろう。

今作においての家族は、それぞれが自分の家族や人生を持つ兄弟姉妹の、集合体的なものとして描かれている。
そのため作品的には群像劇的な意味合いも持つのだが、前述のように主人公個人が何と向き合っていくのかというのがこのドラマの本質であり、つまりはこのドラマが「俺の話」である所以である。
ジャニーズファンであれば、TOKIO、そしてジャニーズ事務所を離れ、新たな世界に向かう長瀬自身と重ねて壽一の奮闘を見守っているのかもしれない。

【クドカン脚本と芸能】

ところで、この企画の発端はクドカン自身が「伝統芸能の継承問題を描きたい」と言ったことにあるという。
彼が伝統芸能をテーマにするのは「タイガー&ドラゴン」に続き2度目と言っていいだろう。
正直多くの人が馴染みがあるとは言い難い設定・テーマであり、この手の話を率先して彼がやりたがるのは、芸能とかエンタメというものにずっと向き合い、演劇・音楽・テレビと幅広く取り組んで、自らも何か役割を果たそうとするクドカンならではというように思う。

と、いうようなことを考えつつ、「ふむふむ」と視聴していたのであるが、阿部サダヲがゲスト出演する最新第5話は特に昔見たようなクドカン節というか、クドカン作品特有の面白さが発揮された回だったように感じた。
寿三郎のエンディングノートに従い、家族でスパリゾートハワイアンズに旅行に行く、という話だ。

クドカンという脚本家は、ロケが非常にうまい。
タレントじゃないんだから、脚本家に「ロケがうまい・下手:と評することはあまりないし、僕自身も特に意識したことがなかった。
しかしこの「俺の〜」において第6話は異彩を放っている。その理由はこの話が「ロケである」ことに他ならないのではないか。
前述のIWGPにしろ「木更津〜」にしろ、特定(しかもめっちゃ狭い)地域のロケーションを最大限にネタに昇華した作品であり、その時まだ「聖地巡礼」という言葉がなかったにしろ、ドラマの中の妙にリアルな世界に愛着を持ったファンは多かっただろう。
何かと制約の多いテレビドラマの中で、人物を移動させつつ、「その場所だから起こること」を、時に時系列を乱しながら、プロットのごとく間をすっ飛ばして出来事の着地点だけを描きながら、視聴者にとって心地よく理解が追いつくような展開を重ねていく。
これはまさに「テレビ的」な作り方なんじゃないだろうか。

実のところ、クドカンがどのようにしてこの術を身につけたのかはよくわからない。
子どもの頃からテレビっ子だったこと、テレビ番組の構成作家をやっていたことが影響しているのかもしれない。
普通演劇出身の脚本家は、テレビドラマや映画のような媒体でも演劇的な作り方をするのが得意な作家が多い。
ここで「演劇的」というのは、ベケットの「ゴドーを待ちながら」に代表されるような、ある1地点にいる複数(だが少数の)人物の心情や会話を中心に描くような作り方だ。「箱庭的」というのか、複数人物が舞台(設定上の一地点)を出たり入ったりしつつ、少しずつ外で起きたことをセリフで登場人物と観客双方に説明していく。もちろん外で起きていることは物語の本質ではなく、舞台上の人・時間に常に焦点は当てられている。
クドカンの先輩的な劇作家であるケラリーノ・サンドロビッチも「激しいカーチェイスの後、残されたガソリンスタンドを描くのが演劇だ」と言っていたらしいが、それもまさにそういうことの延長線上にあると思う。
例えば三谷幸喜のドラマ・映画作品を見た時、メインの舞台であるレストラン、ラジオブース、殺人現場といった一地点に限定した作劇をしても全く問題は起こらないだろう。

クドカンの後継的なドラマ脚本家は現れるのか、とここ10年くらい追ってきた。同じく演劇出身の三浦大輔や上田誠、三浦直之らがそれにあたるのかと考えたこともあるが、やはりこのテレビ的な作り方は彼独特のセンスにあるものだと思う。
まして、ネットの普及によりテレビ視聴の体験自体が変化したより若い世代では、これほどの「テレビっ子」ライターはもう出てこないんじゃないかと思う。

と、「俺の〜」ドラマ自体に戻ると、そこまで家庭や脳の舞台など一定限定的な空間でやりとりを展開してきたところで、大規模な(?)ロケを行ったことがうまい具合に刺激になったんじゃないかという話でした。

余談だが、ベケットの演劇と能楽の類似性についてもしばしば言及されるところである。
「俺の〜」のこの先の話で、能楽・演劇自体をメタ化したような構造のお話や、その逆でテレビの先にある動画・ネットメディアやSNSをうまくネタに使ったような話も、ぜひ観てみたいところだ。

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1件のコメント

  1. Great content! Keep up the good work!

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